こ と ほ ぎ 。

ふとした日常の、何気なく感じた、そんなことをつぶやいています。

AとBの答え

 

人は、自分と同じように弱っている人を見つけては

触れ合って互いに癒しを求めます。

これは悪い意味ではなくて、

ヒーリング的効果、のようなものと感じます。

 

満たされる感覚、癒される感覚。

生きていく上で必要不可欠な感覚だからです。

 

 

人間生きていく上で、

倫理観や道徳観だけに縛られているだけでは

窮屈で仕方ないと思います。

ですが、

なんでもかんでも自由にして良い、わけではありません。

 

寂しいとき、悲しいとき、

誰かにそばにいて欲しいと思う。

「明日の朝目が覚めなくても良い、死んでも良い」と、

毎日眠りにつくその瞬間まで思っている人がいたとして

その人に「明日が楽しみになった」と言わせることたるや。

 

寄りかかる術を持たない者同士は、

互いに寄りかかって、寂しさを埋めあって

明日が来ることが楽しみになって、

そうやって日々は過ぎていくのです。

答えのない「Love」や「like」の行く末より

自由と不自由の間でふわふわと浮いていることや

今、少ししかない時間が、大切なのです。

 

寂しいことを実感して、持ち寄って

ここにいるべき理由としていることを

世の中の大半の人は忌み嫌うのだと思います。

けれど、当事者が「この瞬間が幸せ」と思えるのならば

当事者AとBの持つ「幸せ」が同じところで溢れてしまったのならば

それが変えられようのない、現実なのです。

否。生きていくための、現実逃避、なのです。

 

少なからず私は、

「Love」と「like」の違いより

「幸せを保証してあげられなくてごめん」の方が

心がこもっていて、苦しいほど、素直だと思います。

一番になり損ねた互いの、

姿形など無い「いちばん」になろうとしているAとBの

身勝手で無計画で不条理な姿が目に浮かびます。

「死んで良い」二人の「生きたい」希望、なのだと思います。

 

AとBの答えは、

誰よりも互いの言葉に溺れ、縋り、求めることで

明日を生きようとしている、ということなのです。